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 豊田町の主な年間イベント
2月初旬
4月中旬
4月下旬〜5月初旬
6月初旬
6月中旬〜下旬
7月中旬
7月下旬
豊田湖ワカサギ釣り大会
浮石亀尾山神社 鶏闘(けいとう)踊り
長正司公園の藤棚が見頃
ホタル祭り
ホタル舟運行
徳仙の滝開き
西市地区夏祭り
  9月中旬
9月初旬〜下旬
11月初旬〜中旬
11月初旬
11月中旬
11月中旬
12月22日
豊田のふるさと祭り
梨狩り
豊田の紅葉まつり
ホタルの里湯遊ウォーク
豊田町文化産業まつり
豊田の温泉まつり
浮石義民法要  


 豊田町のはなし(武勇伝・昔ばなし)

浮石義民
宝永5年(1708年)浮石村は未曾有の旱魃による凶作で、過酷な年貢に苦しみました。この年は、庄屋藤井角右衛門の犠牲的苦闘によりなんとか凌げましたが、翌年は豊作により2割増の年貢と前年の借用米返済により、困窮はその極みに達してしまいました。しかし、領主は減租の嘆願を聞き入れてくれません。そこで宝永7年(1710年)7月10日に庄屋以下困窮した浮石の民5人の義民が、幕府の巡見使に杢路子川の豊田渡瀬で直訴しようとしたが失敗してしまいました。その翌日、内日亀が原で再度直訴を決行し、ついに成功しました。義民の訴えは叶えられ、2割増の年貢と借米返済は取り消されました。しかし、当時は直訴は重罪であったため、同年12月22日に長府の松小田で処刑されてしまいました。
徳光山舜青寺境内に「浮石義民」の墓地があります。村人は身を犠牲にして村を救った義民を讃えて処刑された12月22日の命日には、今でもこの寺で法要を営んでいます。

直訴した人物は、給庄屋 藤井 角右衛門、副庄屋 奥原 九左衛門、畔頭 東 与市右衛門、畔頭 蕨野 大郎左衛門、畔頭 柳元寺 豊吉の5名

<参考>
内日上字亀ヶ原の亀尾山神社に「浮石義民碑」が建てられている
浮石義民直訴の地は杢路子にある


お通と万作の恋物語
石柱渓を登り抜けた所は、美祢郡田代という所で静かな山あいに田が開け三々五々農家が散在している。
宝暦3年(1753)の7月の真夏のことでした。17歳位の乙女が、赤いたすきに大きな菅笠をかぶって、田の草を取っていました。時々腰をおこして持て余した草を道の方へ投げるたびに、薄桃色のふっくらした頬に涼しい眼もとの生き生きした美しい顔がちらっと見えます。
ちょうどその時、北の方から道を歩いて来た一人の若い侍がこの乙女のそばを通ろうとした時、そうとも知らず夢中で草を取っていた乙女は、不意に草を道に投げました。泥の付いた草がぴしゃりと若い侍の袴にあたり、袴は泥だらけになりました。びっくりした乙女は、色を失って声を震わせながらお詫びをしました。若い侍は怒って刀を抜くかと思われましたが、そうではありませんでした。
「煮えかえるようなこの暑い中、唯一人であれだけの広い田の草を取っておられるとはさぞおえらいことであろう。袴は汚れたが貴女の不注意からで、故意にされたのではないことはよくわかる。ご心配ないしっかり働いてください。」思いがけない優しい言葉に、乙女の心は強く動かされました。
「誠に恐れ入りますが、私に洗濯させていただけないでしょうか。」
「別に急ぐ旅でもない、おっしゃるとおりにしよう。」
この若い侍は衣笠万作という萩藩の侍で、美しい乙女は田代の百姓娘で「お通」といった。
お通の働く美しい姿に万作の心は次第に引きつけられ、袴はきれいになったが出発する気にはなれなかった。そのうちに二人は手を取り合って、心の底を語り合う仲となった。石柱渓の奇岩を洗う渓流を眺め、手を取り合って散歩する…こういう日が幾日となく続いたが、百姓の娘と武士が契りをかわすことは、その当時どうしても出来ません。滝に打たれても冷すことのできないお通の燃ゆる心は、燃ゆるがままに燃えて世をはかなみ、とうとう石柱渓の淵に身を投じ、これを知った万作もあとを追って身を投げたのです。

お通が身を投じたのは“連理の滝”で後人の名付けた“お通岩”がある。
万作が投身したのはすぐ上の“閑山の滝”で、二人が愛をささやいた滝は“相思の滝”と名づけられて、幾千代変わらぬ二人の愛のささやきを永久に奏でているのです。


カカ(嫁女)みがくところ
山奥の杢路子から、所用で若い衆がはじめて賑やかな下関にでた。
用件は早くすみ時間がったので、ついでに関の町をあちこち歩いた。
右も左も珍しいものがかりで、人ごみの中を一軒一軒たちどまって店先をのぞいた。
ところが変わった店があった。
家の中はガランとしていて、なにも売っているようすがない。
看板は「カカミガクトコロ」とある。
なにか入ると、真正面に光るもの(鏡)がある。
みると自分にそっくりの男の顔がこちらを向いていた。
驚いた若い衆は、はじかれたように表にでて、またあらためて看板の字をよみ返した。
店は鏡を磨く商売屋である。
それを知らない若い衆は「カカ、ミガクトコロ」
カカ、すなわち嫁女を磨くところ、なんと変った店があるものだと、わかったようなわからないような気持ちで村に帰った。
村ではそれが大評判になった。
年が明けて、その話を聞いた人が、下関に行く用事ができた。
さっそく話題の店の「嫁女磨く所」を訪ねてみると、店のようすが変ったのか、美しい琴や三味線がならんでいた。
ふと看板をみると、「コトシャミセン」を書いてある。
「ハハァ今年は嫁女をみせんのかいのお」
と、その男は落胆して帰っていった。


カラスを雉子と売る
作物を荒らすカラスを、たくさん退治したが、これを捨てるのはもったいないと、長府の町に売りに出ることにした。
だからといって、長府の町ではカラスを買うようなバカはいない。
そこでこの男は、雉子を1羽棒の先にぶらさげ、うしろの烏をいれた袋の中は見えないようにして、
「カラスやカラス。カラスはいらんかいな」と、大声で呼びながら町を歩いた。
これを見た長府の町の人は、
「杢路子のものはなんと間抜けじゃ、雉子をもっちょりながら、烏と思うて売って歩くわい、こりゃ安かろう」
「これこれ、烏はなんぼもっちょるのじゃ」
「へい、この袋の中にゃ30羽ござりましょう」
「みんなでなんぼうじゃ」
「みんな買ってくださりゃ安うして、200文にしちゃげるわいね」
欲に目のないあきんどのこと、
「よっしゃ200文ならみなもらおう」
と銭を払った。
杢路子の男はよろこんで、
「助かりました」と拝んだ。
うしろのカラスをとり出すのをみて、あきんどは驚き、
「おいおい、わしが買うちゅうたのはそれじゃあない、前にぶらさげちょるカラスじゃ」
すると杢路子の男は、
「前もうしろもありゃせんですがな。わしゃはじめからカラスを買わんかというちょりましたので、これがまことのカラスにござります」
といって、とうとう長府のあきんどにカラスを売りつけてしまったという。


ヘコをはずしてたべるもの
村の若い衆が下関から嫁をもらった。
夫婦が仲人と一緒に下関に里帰りしたとき、嫁の家では、海の幸が山ほどだされた。
その中にカニの吸物があったが、これがムコにはなにかわからない。
こっそりとなりにすたっている仲人にたずねると
「これはカニの吸物ちゅうもんでヘコをはずしてたべるもんじゃ」
と教えてくれた。
ヘコとはカニの腹の部分のことで、形がよく似ているのでフンドシともいっている。
それを知らないムコははずかしがったが、自分のフンドシをこっそりはずしてカニの甲羅のまま、ガリガリたべはじめた。


近松門左衛門誕生の地
近松門左衛門は浄瑠璃の創始者であり大戯曲家である。本名は杉森信盛で幼少時代の名は平馬という。
父は長州藩執権家老椙杜広品(すぎのもりひろかず)で、母は女中ではじめは広品のお守役であった。封建社会の中で女中が主君の子を宿すことは許されず、救いを求めてやってきたのが神上寺であった。神上寺は女人禁制であったため、寺侍であった木川家に頼み家の前に小屋を設けそこに住まわせた。まもなく男の子を出産し平馬と名づけた。それが近松門左衛門であると言われている。
神上寺の前には近松門左衛門誕生の地の石碑がある。





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